Drama
21 to 35 years old
2000 to 5000 words
Japanese
ここはどこだ？ ぼんやりとした視界が開けると、白く清潔な天井が目に入った。まるで病院のようだ。いや、病院か？
僕は、EPR97809（ショウ）。 最後に何を見たのか、まるで思い出せない。頭がぼうっとして、思考がまとまらない。
声が聞こえた。顔を上げると、優しそうな顔をした女性が立っていた。白衣を着ているから、やはり医者だろうか。
「ここは『療養所』です。あなたは少し、休む必要があります」
「あなたは死後、こちらにいらっしゃいました。まだ、自分の状況を受容できていないようです」
女性は微笑んだ。「焦る必要はありません。ゆっくりと時間をかけて、自分のペースで受容していけばいいんです」
僕は、言われるがままにベッドに横たわった。自分が死んだ、という事実が、まるで現実味を帯びてこない。死んだ、か…。
気が付くと、僕は療養所の個室にいた。窓の外には、見たこともないような、穏やかな光景が広がっている。美しい花が咲き乱れ、鳥たちが歌い、人々は穏やかな表情で歩いている。
でも、僕は、その光景に何の感動も覚えなかった。心の奥底に、鉛のような重い何かが沈んでいる。生きている時からずっと抱えていた、孤独感だ。
死んだら楽になると思っていた。苦しみから解放されると信じていた。でも、死後の世界にも、苦しみはあるんだ。
それは、死にたくても死ねない、という残酷な事実だ。この世界に、終わりはない。苦しみから逃れることはできない。
僕は、療養所の個室に閉じこもった。頭痛がする、腹痛がする、軽い下痢もある。体調不良を言い訳に、誰とも会おうとしなかった。
８年が過ぎた。８年間、僕は療養所の個室から一歩も出ていない。
ノックの音がした。「ショウさん、いらっしゃいますか？」
ドアが開いた。そこに立っていたのは、見慣れない女性だった。明るい笑顔を浮かべている。
成香は、怯むことなく微笑んだ。「そんなこと言わないで。少しだけ、お話しませんか？」
「あるはずです。あなたは、ずっと一人で抱え込んでいる。それを少しだけ、私に分けてくれませんか？」
僕は、しばらく黙っていた。成香の瞳は、まっすぐ僕を見つめている。その瞳の中に、嘘はない。
「そうですね。無理強いはしません。でも、いつでも声をかけてください。私はここにいますから」
成香は、そう言って部屋を出て行った。僕は、再び一人になった。でも、なぜか、少しだけ心が軽くなった気がした。
次の日、成香はまた僕の部屋に来た。「調子はどうですか？」
「本当ですか？ それはよかった。よかったら、少しだけ、外に出てみませんか？」
「大丈夫です。私が一緒にいます。ゆっくりと、少しずつ、慣れていきましょう」
僕は、悩んだ。８年間、閉じこもっていたんだ。今更、外に出ても意味がない。
でも、成香の瞳は、諦めていない。その瞳は、僕に希望を教えている。
成香は、嬉しそうに笑った。「本当ですか？ よかった！ さあ、行きましょう」
僕は、８年ぶりに個室のドアを開けた。眩しい光が目に飛び込んできた。少し、クラクラした。
成香は、僕の腕をそっと支えた。「ゆっくりでいいんです。自分のペースで」
僕は、ゆっくりと歩き始めた。８年間見ていなかった風景が、目の前に広がっている。美しい花、鳥の歌声、穏やかな人々の笑顔。
僕は、成香に言われた。そうだ、ここは、綺麗な世界なのだ。生きている世界とは、比べ物にならないほど、美しい。
成香は、木陰のベンチに僕を座らせた。僕は、深呼吸をした。空気が、肺を満たしていく。
成香が、言った。本当にそう思った。８年間、閉じこもっていた世界とは、全く違う空気が流れている。
「ショウさん、あなたは、なぜ、ここにいると思いますか？」
僕は、黙っていた。死後の世界にいる。それ以上のことは、何も考えられなかった。
「あなたは、過去に囚われている。過去の苦しみから、抜け出せないでいる。だから、ここにいるんです」
僕は、記憶を辿った。最後に何を見たのか、何を考えていたのか。でも、思い出せない。
「無理に思い出そうとしなくてもいいんです。ただ、心の準備をしておいてください。いつか、必ず思い出す時が来ます」
僕は、成香の言葉を胸に刻んだ。いつか、死因を思い出す時が来る。その時、僕は、どうすればいいのだろうか？
数日後、成香はまた僕の部屋に来た。「今日は、少し、遠出をしてみませんか？」
「思い出の場所に行きましょう。あなたが、生きていた頃の場所です」
僕は、戸惑った。思い出の場所？ そんな場所に行っても、辛い記憶が蘇るだけではないだろうか？
「大丈夫です。私が一緒にいます。もし、辛くなったら、いつでも言ってください。すぐに帰りますから」
僕は、意を決した。過去と向き合う時が来たのだ。逃げてばかりでは、いつまで経っても、前に進むことはできない。
成香は、嬉しそうに笑った。「本当ですか？ よかった！ さあ、行きましょう」
僕たちは、療養所を出発した。景色は、どんどん変わっていく。見たことのないような建物、見たことのないような人々。
そして、気が付くと、僕は見覚えのある場所に立っていた。それは、僕がずっと住んでいた街だった。
僕は、街を歩いた。昔住んでいた家、よく行った公園、子供の頃に通っていた学校。
記憶が、少しずつ蘇ってきた。楽しかったこと、嬉しかったこと、そして、辛かったこと、悲しかったこと。
そして、ある場所にたどり着いた。それは、僕の家があった場所だった。
僕は、息を呑んだ。全身が震え出した。記憶が、一気に押し寄せてきた。
妻の虐待。毎日毎日、罵詈雑言を浴びせられ、暴力を振るわれた。息子を守るために、僕は耐え忍んだ。
でも、限界だった。ある日、僕は、ガソリンを被り、火をつけた。
僕は、膝から崩れ落ちた。過去の記憶が、まるで現実のように、目の前に蘇る。
成香は、僕を抱きしめた。「大丈夫ですか？ 無理しないでください」
僕は、泣き叫んだ。８年間、押し殺してきた感情が、一気に爆発した。
成香は、ただ、僕を抱きしめてくれた。僕が、落ち着くまで、ずっと、そうしてくれた。
しばらくして、僕は、少し落ち着きを取り戻した。成香に支えられながら、僕は、立ち上がった。
「どういたしまして。あなたは、もう、一人じゃない。私がいますから」
僕は、成香の言葉に、救われた。過去の罪を償うことはできない。でも、これから、生きていくことができる。
僕たちは、療養所に戻った。僕は、自分の個室に戻った。でも、以前とは、全く違う気持ちだった。
過去の罪を背負いながら、それでも、生きていくことができる。希望が、心の奥底から湧き上がってきた。
数日後、僕は、療養所を訪れる人々を手伝うようになった。過去の僕のように、苦しんでいる人たちを、助けたいと思った。
そして、ある日、僕は、不思議な感覚を覚えた。誰かに見られているような、温かい視線を感じた。
顔を上げると、そこには、見慣れない男の子が立っていた。
男の子は、僕に向かって微笑んだ。そして、一言、言った。「お父さん」
僕は、息を呑んだ。目の前の男の子は、成長した僕の息子だった。
息子は、涙を流した。「ずっと…ずっと…お父さんのことを探していたんだ…！」
僕は、息子を抱きしめた。８年ぶりの再会だった。過去の罪は消えない。でも、息子は、僕を許してくれた。
息子は、現実世界で、僕の後を追おうとしていた。僕が焼身自殺した場所で、死のうとしていた。
僕は、死後の世界から、現実世界の息子に叫んだ。「死ぬな！ 生きてくれ！ お前には、未来がある！ 生きて、幸せになってくれ…！」
息子は、僕の声を聞いたかどうかはわからない。でも、彼は、立ち止まった。そして、涙を流しながら、叫んだ。「お父さん…！」
僕は、息子を見守り続けた。息子は、苦しみながらも、生きていくことを選んだ。彼は、やがて、幸せな家庭を築いた。
僕は、死後の世界から、息子の幸せを祈り続けた。それが、僕に残された、唯一の償いだ。
そして、いつか、僕の罪が許される日が来ることを、信じている。